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読書記録
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“西欧社会において、芸術は万人のものとは言い難く、芸術がその条件として内包している選別性ゆえに、その生産は限られた数にとどまっている。この点に関して芸術は、言語活動よりも文字言語により一層の類似を示すと言えよう。なぜなら、言語はその存在自体において話集団と切り離せないために、個々の事例においても集団的なものと関わっており、あらゆる社会制度の中で、最も個人が主導権を持つことが少ないのに対し、通常の意味における文字言語は、芸術同様少数の専門家集団、あるいは社会的な特権を有する人々の専有物に長くとどまってきたのであり、その発展、ひいてはその制定すら、しばしばある熟慮された計画に対応しているからだ。言語活動に私有財産はない。そしてそれゆえにこそ、ソシュールの言い方に倣えば、言語活動は革命を経験することがなかった。しかしながら、多くに共有されているとは言い難い芸術、ましてや常に「改革」の対象となる文字言語では事情がまったく異なっている。他方、そしてそうした区分が言語学の領域で確立され、その区分自体は(畢竟、言語学者にとって常に言語の表象再現に到達することが常に問題となるがゆえに)表象再現の構造に支配されていないとしたら、芸術の生産物に関して「言語」(能力)が何らかの仕方で「話し言葉」(遂行)よりも先に立つ、あるいは芸術生産が、形態や形象の限られた多様性において、先験的にそれを決定する有限個の規範をどのように使用するかに帰着すると主張することはできないだろう。仮に絵画の体系らしきものが何か存在するとしても、それが厳密に確立される場である生産物の外側でそうした体系が現実性──理論的にも──を持つことはない。多少の修正を加えつつ、ソシュールの比喩を借りて言えば、芸術家が着想を得るのは、実践を通して埋蔵物を受け取る言語の「宝典」ではなく、「傑作」すなわち達成度、権威において重要な作品という資本に他ならない。「言語」はここでは「話し言葉」というよりもむしろ「趣味」(感覚/器官)との対立において理解され、創作の質や様式への配慮のみならず、系列的な作品郡(趣味の領域に属する作品)には見られないような言語への意志が明らかになる場合には、体系の問題を範型としての価値や力を有する非常に稀な作品の水準で語ることが利をもたらすであろう。そうした言語への意志は、細部の探求あるいは改良といったことにそうした意志が誤りを犯した場合、すなわち二流の作品や型通りの生産物には等価物を持たない。”

ユベール・ダミッシュ 「雲の理論 絵画史への試論」

Ⅲ 統辞論的空間

2章「表象再現の文字言語」

松岡新一郎訳 法政大学出版局 2008年